トランスジェンダー大丈夫そ?【自由からの逃走編】

反TGism
ダンス・イン・クローゼット管理人
ダンス・イン・クローゼット管理人

トランスジェンダリズムは何かから逃げている、と感じます。論理が破綻していても正しいと信じ、都合の悪いことには耳をふさぐ。“正しいと判断したから信じている”というより“信じたいから信じている”ように見えます。カルトのように。そうまでして信じたい欲求はどこからくるのか。

トランスジェンダリズムを支持する理由は「自由を得たい」「自由から逃げたい」両方あるかもしれませんが、今回は自由からの逃げで考えていきます。


ここではトランスジェンダー自認男性、女性自認男性、女装男性、性器美容整形済男性なども含めてトランス女性()と表記します。

トランスジェンダー、トランスジェンダリズムの説明は、No!セルフID 女性の人権と安全を求める会さんのトランスジェンダリズム(性自認至上主義)とはをご覧ください。

この記事は反トランスジェンダリズムとして発信しています。

へその緒のような絆

子どもは生まれると、もはや母親とは一体ではなくなり、母親から離れた一個の生物学的存在となる。個人的な人間存在のはじまりではあるが、子供はなおかなり長いあいだ機能的には母親と一体になっている。

比喩的にいえば、個人が外界に結びつけられている臍の緒を、完全に断ち切っていない程度に応じて、かれには自由はないのである。しかしこれらの絆、かれに安定感や帰属感や、またどこかに足をつけているという感じをあたえる。(略)

個人が完全に開放される以前に存在するこれらの(原始的な)絆を、「第一次的絆」と呼ぼうと思う。(略)子どもを母親に結びつけている絆、未開社会の成員をその氏族や自然に結びつけている絆、あるいは中世の人間を教会やその社会的階級に結びつけている絆は、この第一次的絆にほかならない。

『自由からの逃走』p34 ()内は筆者

そしてこの第一次的絆が失われていくと、つまり自由になっていくと、孤独になっていき、無力と不安の感情を生み出すそう。孤独と無力の感情を克服しようと、自己を投げ捨てて外界と一体化する衝動が生まれる。でも母親の胎内に二度と戻れないように、元通りの精神的な一体感には逆行できない。あえてしようとするなら服従になる。(p39参考)

誰だったか「女の子らしくしなさいと言われたかった!」みたいな男性がいたけど、これか?第一次的絆がもっと欲しかったのか?親や周囲との結びつきがもっと欲しかったのかな?言われることによって何を得たかったのかというと、女として抑圧される経験ではなく、絆を感じたかったのではないでしょうか。つまりは孤独だったのかな?似たような指摘してらっしゃる人がいて、私もそう思いました。

ジェンダーアイデンティティーのことを性別集団への帰属意識と主張する人を見たことがあります。アイデンティティーという言葉のニュアンスから帰属意識という意味を導いたようです。でも異性への帰属意識があったところで女は女だし男は男なんですけどね…。何かしらの性別グループに参加したくてしょうがないのでしょうか。“男”(ホモソーシャルが認める男らしい男)に帰属できないからって、“女”(男の考える女らしい女)に所属させないでください。“男”には入れないけど“女”には入っていると認めさせるために女性に圧力をかけないでください。

(なんでそんなに性別への帰属意識が欲しいわけ?帰属意識が欲しくてしょうがないって、よっぽど孤独なの?大丈夫?あらゆるコミュニティーからハブられてる?)

出生時の性別に対し、自分で帰属を拒否しているとも言えます。拒否しても性別は変わりませんが。一番親しい(はずの?)自分という存在を拒否し、また拒否される。それはつらいんじゃないですかね。必要なのは自分を受け入れることなんじゃないですか。自分の外との絆を求める前に、自分との絆が必要なんじゃないですか。

匿名の権威=ジェンダー説

人間がかれになにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている。しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落している(原文ママ)。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。いいかえれば、われわれは外にある力からますます自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる。

『自由からの逃走』p122  強調原著者、本では点で強調

トランスジェンダリズムにおけるこの「匿名の権威」はジェンダーじゃないでしょうか。「性自認」は名指しされた権威であり(日本語で性自認至上主義と言いますし)、ジェンダーに基づいています。もっと言うとジェンダーと呼んでいるものは「オトコ様のお気持ち」(根拠もないのに男が言うから優先されるという皮肉)なので、「オトコ様のお気持ち至上主義」という感覚でもいいと思います。

「女/男はこうあるべきもの」という願望を“常識”化したものがジェンダーだと考えています。その延長線上に性自認はあります。性自認は判断基準をジェンダー(「女/男はこうあるべきもの」)に依存していて、ジェンダーに当てはまった・当てはまらないから自分は女/男に違いない!と判断を下しています。判断基準がおかしいんです。「女/男に違いない」と思い込むことやそう感じる感情は事実として否定しませんが、思い込むに至った判断基準がおかしいんです。オトコ様のお気持ち(願望)発→ジェンダー(“常識”)経由→オトコ様のお気持ち(虚構に基づいた判断)着 なんです。出発が虚構なんです。違うと言うなら一体何を基準にして自認を決めているのか説明していただきたい。

自分が持っているジェンダー観(“常識”)とトランスジェンダリズムが主張していることが合致していると、トランスジェンダリズムが正しく見えるかもしれません。ジェンダーはあって当たり前、従って当たり前と思っていると正しく見えるかもしれません。でもそれを当たり前じゃないと主張するのが私のような反トランスジェンダリズム。GC(ジェンダークリティカル)とも言いますね。私の主張をまとめるとジェンダーというのはそもそも虚構だから、虚構に基づいた判断(自認)をするのはやめろという感じです。「ジェンダーに従うのは当たり前!だからジェンダーに基づいた判断(自認)は妥当!」な人はこれを理解できないでしょう。自分の中で固まってしまった“常識”を疑うことは確かに難しい。けどアップデートしてくれ。ジェンダーは虚構だ。

ジェンダー観が壊れれば、「自分は男/女」というアイデンティティが崩壊してしまう人もいるかもしれません。自分が信じてきたものを否定することになるんですから、多分つらい作業になるでしょう。つらい作業から逃げるには、全部従ってしまえばいい。そうすれば自分を疑う必要がない。自分と戦う必要がない。今までと同じ自分でいられる。考えることの放棄ですね。

悩みからの逃げ&神にかわっておしおきよ

マゾヒズム(他人から支配され苦しもうとすること)のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷から逃れることである。(略)(つけたせば他人が優越した力をもっていると考えることも、つねに相対的に理解されなければならない。それは他のじっさいの力によることもあるし、また自己の完全な無主義性、無力感を信ずることによるばあいもある。後者のばあいには一匹の鼠でも、一枚の木の葉でも、おそるべきものと考えられる)

『自由からの逃走』p170 本でも漢字にできるとこ平仮名のままです ()は筆者

(女尊男卑ダーもシス特権ダーももしかしてこれでしょうか?…アンフェってマゾヒストだったのかな)

自分を無力だと思い込むことって、無力感増大するじゃん、なんでそんなことするの?って思うかもしれませんが、悩まなくて済むからですね。強くなりたいのになれない、悩んで苦しい→自分には力がないことにしよう→力がないんだからもう強くなれる可能性がない→悩まなくていい! …いいのかそれで?

マゾヒズムのもう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の一部となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、良心でも、あるいは肉体的強制でも、なんでもよい。(略)没入した力に参加することによって、ひとはその力と栄光にあやかろうとする。

『自由からの逃走』p174

没入した力に参加できるんですねえ。…いやあくまで気分ですけど。権力を持った気分を味わえるんですね。なんかこういう、何かの威光を借りて権力を持った気分の人、いますね…。トランスジェンダリズムの主張は突き詰めれば「ジェンダーに従え」なんじゃないでしょうか。ジェンダーの権威を借り、ジェンダーに従えと人々に迫っている。

宗教の権威も常識の権威も薄まったなか、それでもジェンダーは権威を持っている(と思うから没入の対象に選ばれたのでしょうか)。今じゃ神は性自認(オトコ様のお気持ち)、聖書はジェンダー(すごくはっきり文章化しているわけじゃないけど)、聖職者はトランスジェンダー(特権持ちが弱者男性(童貞)から弱者男性(女装)へ)、信者はトランスアライ(異教徒を脅迫)。神の名において異教徒への攻撃は正当化されるってか?

権威主義的性格

サド・マゾヒズム的性格という言葉のかわりに、性的倒錯や神経症という観念から離れた人間を指す場合は「権威主義的性格」と呼んでいます。特徴が権威に対する態度に表れるからだそうです。権威に対してマゾヒズム的、権威を借りてサディズム的に振る舞う。(p182参考)

権威主義的性格にとっては、すべての存在は力を持つものと、力を持たない者とに分けられるそうです。力を持つ者にはマゾヒズム的に、力を持たない者にはサディズム的に振る舞う。力を持つ者には服従し、力を持たない者には攻撃する。権威主義的性格の人は、権力が守ろうとする価値ではなく、それが権力であるという理由で夢中になってしまうんだそう。(p186参考)

(これ男の特徴じゃないん?強い者には尻尾振って、弱い者(特に女)に加害する、ホモソーシャルの特徴じゃないん?)

トランスジェンダリズム支持者は、ジェンダーという力に服従するマゾヒストでありつつ、ジェンダーという力を振りかざして女性を踏むサディストだと言えましょう。トランスアライの男とトランス女性()はジェンダー((自分より強い)オトコ様のお気持ち)に屈服するマゾヒズムと、女性を踏むサディズムを味わえる。トランスアライの女性(とトランス男性()含む?)も、ジェンダー((理不尽な)オトコ様のお気持ち)を受け入れるマゾヒズムと、他の女性を踏むサディズムを味わえる。権威主義者にとっては権力に耐え忍ぶことが美徳(p190)らしいので、トランス女性()の主張を受け入れる自分はすばらしいとでも思ってるんじゃないでしょうか。動機をあんまり語ってくれないからこうして予想するしかないですが。

おわりに

「トランスジェンダリズムは自由から逃げている」というテーマで書いてきました。あくまで当てはめですが、結論としては、トランスジェンダリズムはジェンダーという権力に服従して自分を捨てている&ジェンダーという権力で女性を踏んで、支配しようとしていると思います。

他人を支配し苦しめようとするサディズムと、支配され苦しもうとするマゾヒズムの願望は正反対だが、根本的な要求は両方とも、孤独に耐えられないことと、自身の弱点からの逃れだという。(p176参考)そんなの、孤独感と無力感を受け入れるか、解消する別の道を探したほうがいいと思います。自由から逃げたところで味わえるのはせいぜい孤独じゃない気分・無力じゃない気分なんですから。てか別の道を探せ!弱者に迷惑だ!支配するな!服従するな!抗え!

第一次的絆を失い、孤独になった先には二つの道がある。一つは自由を捨てること。もう一つは自発的に自身と世界を結びつけること。それは愛と仕事、感情的感覚的および知的な能力の純粋な表現(p158)だそうです。(…もうちょい詳しくお願いします…!)失った第一次的絆はもう取り戻せませんから、代わりを探していくしかないんです。仮にカルトが孤独感を癒してくれても、自由という代償は高すぎると思いますよ。

参考図書:人はなぜ「自由」から逃走するのか: エーリヒ・フロムとともに考える 仲正 昌樹 ベストセラーズ 

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