ブチギレ読書シリーズ『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』

反TGism

『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』五月 あかり 周司 あきら  明石書店

五月あかりはノンバイナリーでトランス女性(※異性自認男性のこと)ってことでいいのか?状態としてはトランス女性に近づいたとは書いている(p75)。アセクシュアル。

周司あきらはパンセクシュアル、ポリアモリー、トランス男性(※異性自認女性のこと)。

五月あかりは、男性だった(と本人が認識している)頃は、大きく膨らませた身体を維持するので頭がいっぱいで、いつも膨らんだ風船を身体の内側から押している必要があった(p57)そう。対して周司あきらは、男性のようになるためには、「女性」であったときに全身を縛って縮めていた、窮屈なコルセットを外せばよかっただけ(p47)と表現していた。どちらも女/男らしさに苦しめられたようですね。

二人とも性別移行(と彼らが呼んでいる)をせずに、自然にふるまうことを自分に許せなかったのでしょうか。コルセットから解放された女として。身体を膨らませるのをやめた男として。

人間は性別を変えられませんが、「性別を移行した」「シス女性たちと同じタイプの身体になった」「女性の身体に変わりました」「男性だった頃」「女性であったとき」など、あたかも性別を変えられるかのような誤解を生みそうな言葉とともにこの本は進んでいきます。

性同一性がないのにトランスジェンダー?!

(そもそも性同一性(性自認、ジェンダーアイデンティティとも)が存在する根拠なに?仮に存在するとして、女/男だと判断した根拠なに?どうせジェンダー(女/男らしさの偏見)が根拠なのでそもそも性差別的架空概念ですが、一応この本の考えを整理します。)

五月あかり・周司あきら、二人とも性同一性がないそうです。五月あかりは女性としての性同一性(性自認)がなく(p17)、女性から同性として扱われるのは気持ち悪い(p56)そうです。じゃあ女性にまぎれず堂々と男だとアピールしてくれないかな!!??

周司あきらは自分を男性だと認識していないそうです。「こんがらがった無数の事象に立ち現れる性別Xに「男性」を代入してみると、数式全てが綺麗に収まりよくなってしまうらしいから、ただなんとなく、じゃあ私を男性ということにしておきましょうか、と言っているだけなのです。本当は私の性別なんてどうでもよかった。でも、きっと男性なのだと仮定すると、うまく物事が回るらしいから、私は空気を読んだだけ。(p71)」???空気を読むなよ。それ女らしくないなら女じゃねえ!に屈しただけでは?

トランスジェンダーとは、割り当てられた性別(※トランスカルト用語です)と性同一性(性自認、ジェンダーアイデンティティとも)が異なる人とかいうのが定義じゃなかったのかよ!経産省女子トイレ裁判の最高裁での判決(#最高裁711)(過去の記事)で「性自認に基づいて社会生活を送る利益」とか「自認する性別に即して社会生活を送ることは、誰にとっても重要な利益」とかご丁寧に擁護されてたのに。性同一性がないってことは利益(?)を保護する対象じゃないってことでよさそうですね?

(性同一性が無くてもトランスジェンダー!ってことなんだと思います。もうめちゃくちゃ。定義にあてはまらないなら勝手に拡大してないで、「好きな格好してるだけの女/男です」って言えばいいのに。でも言えないんでしょ?)

誰が性同一性を持っているのか

1.シスジェンダーもトランスジェンダーもみんな性同一性がある
2.シスジェンダーは性同一性を持ってない
3.性同一性があるシス/トランスジェンダーがいるが、実は性同一性のないシス/トランスジェンダーもいる
(p86・87要約)

3番目の可能性を証明するような自分たち「性同一性がない系トランスジェンダー」がいるし、性同一性が~という今までの定義に収まらないトランスジェンダーやシスジェンダーがいると書いています。…いや、もうここまで来たら分かるでしょう。シスジェンダーもトランスジェンダーもないんだよ。分けられる境界なんてないんだよ。自由な格好をした女と自由な格好をした男でしかないんだよ。シス/トランスなんて分類、最初から破綻してるんだよ。

フローチャート

p111にフローチャートがあります。6つの質問で16個の結果に行きつく。(写真撮って引用していいものでしょうか?似た図作って載せていいものでしょうか?分かりにくくてすみません)

①生まれたときに割り振られた性別は?→女性(f)/男性(m)
②性同一性ははっきり持っている?→Yes/No
③持っている性同一性は?→f/m/その他
④①と③は一致している?→Yes/No
⑤①から移行している?→Yes/No
⑥いま社会的に扱われている性別は?→f/m

一応このフローチャートによると、五月あかりは「ノンバイナリー的な性同一性をもち、女性へと移行したトランスジェンダー」、周司あきらは「性同一性はないが男性へと移行したトランス男性」だそうです。

五月あかり:②性同一性ははっきり持っている?Yes→③持っている性同一性は?その他
周司あきら:②性同一性ははっきり持っている?No→⑥いま社会的に扱われている性別は?m(フローチャートが③④⑤をとばして⑥にたどり着く)

待て待て、この違い何!?五月あかりも性同一性がないんじゃなかったの!?「性同一性がない」と「ノンバイナリー」の明確な違い何!?

性同一性のあるなしを考えるのも信じるのも個人の自由だけど、存在するのは身体の性別だけです。

女性限定なのを知っていて脱毛サロンの初回カウンセリングに行き、入会断られてその場で泣いたそう。「わたしが辛かったのは、これだけ女性のように生きていて、これだけ埋没しても、なおわたしの生まれや、わたしの過去のせいで、わたしの身体が『女性の身体』ではないと指差されることがあるという現実でした。(p91)」女性の身体ではないのは事実ですね…。

「私の過去を知った瞬間に、わたしの身体はモンスターのように名指されました。」モンスターのように??「人間」「男」としてではなく??「いったい、わたしが何をしたというのでしょう。いったい、わたしの身体の何が悪かったのでしょう。(p92)」身体が悪かったんじゃなくて、女性限定だからですね…。

女性としてスポーツジムに入会し更衣室を使っているそうです。もしや戸籍変更済?

「周りの男のようにならなければ」と焦って自分の父や兄、同級生のような「くそ男」を身につけたそう。学校で騒ぎを起こしたり、群れ立って職員室を荒らしたり、近所の大学の学園祭に乱入したり、商店街で警察と鬼ごっこしたり、公園の樹を燃やしたり、発電所でぼやを起こしたり、ちょっとしたものを転売して小銭を稼いだりしたそうです。(p239)そんな男が女性スペースにまぎれているのか…。

生活実態が「女性」に寄っていく(※本人談)につれ、自分が生きているという実感が増してったそう。(p96)子どもの頃から、この世界は現実の世界ではないのではないかと思っていたそうです。あまりにも出来の悪い救いのない世界を受け入れるための方法が、「この世界は誰かが間違えて作ってしまった世界だ」(p202・203)だったと。現実を受け入れられないくらい過酷な境遇だったことは分かりました。

性別移行は世界への復讐でもあるそうです。「わたしに「男性」なんて性別を押しつけて、無理やりやらせた、世界に対する、復讐なんです。」「これは、都会の金持ちのために犠牲になっている、地方の公営団地の、暴力と貧困をそこら中にはびこらせた状況を放置している、世界全体への復讐なんです。」(p205・206)

?????「男性をやれ」(?)に逆らってるつもりのようだけど、貧困と暴力を放置した存在への復讐にはなっているのか??

五月あかりの心情が良く分かると思って引用しました。これに答えるとすれば、「あなたの上陸を許可しません。」

どんなに苦しんでいようと、男は女になれません。どんなにつらい過去があろうと、男性が女性スペースに入っていい理由にはなりません。どんなにかわいそうでも、女性差別を許すことはできません。女性スペース使用を自分に許すな。

周司あきらは男の子と一緒になってスカートめくりをするような子どもだったようだ。でも男子から「気になる女子」に挙げられておどろいたそう。「共犯者じゃなかったのか――?」と。自分が男だったら今よりももっと酷いセクシストだっただろうとも書いています。(p69)女性でもミソジニーに染まりますからね。女性スペースに男を入れようとするくらいミソジニーに染まっても、自分じゃなかなか気付けないかもしれない。

母親がジャニーズ好き、そして周司あきらもジャニーズが好きだそう。「トランスジェンダーあるあるですが、「好き」と「なりたい」の区別はついていなかったのかもしれません。私はジャニーズが他者としても好きだし、今となってはより強く、自分自身の「なりたい男性像」を形成するためにも貴重な存在でいてくれています。」(p165) これは感じてた。「好き」の混同。「持ちたい(手に入れたい)」のか「なりたい」のか「持っている人になりたい」のか「持ちたい人が持ちたい人になりたい(羨望・男疾男石)」のか「なりたい人が持ちたいから持ちたい(CMで人気芸能人が商品を美味しそう!とか言ってるのはこれを狙ってですね)」のか…とにかく欲望って混同しますよね。母親との関係にもよりますが、私だったら母親に愛される存在に、ジャニーズのようなものに、男性ホルモンを打ってでもなろうとしちゃうかもしれません…。

周司あきらがきもちわるい、気色悪いと挙げていることの中には、女性として生きるのは確かにつらいと共感せざるを得ないものがある。「スカートで冷える脚、成長期で痛む胸、見知らぬ人からの性的な視線、比べあう女子コミュニティ、下品な話しかしなくなった男子たち、少し会話するだけで「付き合ってるの?」、痴漢」(p164)ほかにもダイエットに向き合う日々、部活のレオタード(レオタードのある部活は新体操でしょうか?確かに問題ですよね。)、生理。やたらとパステルカラーの雑誌ってどれのことだろう?欲しいものがひとつもない服売り場…脱コルした私はすごく共感してしまいます。

第一の問い、人生は生きるに値するか
第二の問い、私は人間ではないのではないか
第三の問い、女性ではなく他の性別で生きるべきなのではないか
これらを自問自答していたそう。第一の問いは…希死念慮にしか見えない…。二番目三番目も生きてるのが辛くて現実逃避したいように感じる。(p190~192要約)

第三の問い、性別移行の選択肢へのストッパーが外されたのは、失恋からだったそう。(p193)ヘテロセクシュアルの女性を好きになり、失恋し、男になってしまおう、というより女であるなら死ぬほかなかったと。(p282)第三の問いにうまく応答できたおかげで第一第二の問いに蓋をできていただけで、逃げであり妥協案だとも書いている。(p195)

蓋をしても消えるわけじゃないのでは…第一の問いへの、根本的なケアが必要なのでは…。トランスジェンダーに関する運動は、言うなれば第三の問い、つまり性別違和に注目していて、第一の問いへの根本的ケアから当事者を遠ざけているような気がして心配してます。

トランスジェンダーの人たちで、性別移行すると急激に「幼く」なる人っていますよね。性別違和やら、家庭の虐待やら学校でのいじめやら、トランスの人たちはそういうことに悩む幼少期を過ごしがちですから、性別を移行して初めて「子ども」をやれるようになる(p272・273五月あかり)??なんで幼い異性だったことがないのに幼い異性になれると思うんだ??それは妄想の中の幼い異性を演じているにすぎない。

周司あきらがポリアモリーということで、ポリアモリーについても書かれていました。パンが好きな人は米も麺も好きかもしれない、パンと犬と天体観測が好きです!なら浮気者と言わないだろう、別れれば何人ともかかわるのだから時間がズレただけの浮気だなど書いてました。五月あかりはラーメン屋やパスタ屋に例えて、〇〇のラーメン屋に通ってるなら××のラーメン屋には行くな、こってりの気分のときもあっさりの気分のときもあるだろ、と例えたりしてました。(p311・317・318)人間を何だと思ってんの???

チ〇コ切ったからいいだろう、女に見えるだろうからいいだろう、男というアイデンティティを持ってないからいいだろう、と女性スペースに侵入する言い訳を「~~だからいいだろう」的な思考で迫られている現在、私は声を大にして言います。そんなことを許した覚えはない!!

彼らからは「自分じゃなくなりたい」「消えたい」果ては「〇にたい」まで感じるのですが…そこに蓋をして放っておいていいんですかね??根本的な苦しみから目を逸らして性別に注目させるの、何も解決しないし、そこで手術やらホルモンやらしてしまったら、むしろもっと苦しみそうで心配なんですが。

人間は性別を変えられないし、異性のスペースに入る権利もない。自分のことを女だと認めたくなくても女は女で、自分のことを男だと認められなくても男は男。認められない原因は、女/男はこうあるべき!達成できないなら女/男じゃない!っていう偏見、つまりジェンダーなんじゃないですか?ジェンダーさえなければ、この二人はここまで苦しまなかったのではないかと私は勝手に思っています。この二人のように苦しむ人がこれ以上出ないように、私はジェンダーを批判して、解体して、壊していきますよ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました