映画『片袖の魚』前衛ダンス考察

反TGism

映画『片袖の魚』(感想記事)には前衛的なダンスが出てきます。映画『片袖の魚』予告編(ちょうど出てくる1:15から始まります。肌色注意。)を見て体にシールを貼ったダンサーが出てくるのが分かればいいです。映画では踊ってる間にシールがたまに剥げます。

シール=女性性のマーク

ホモソーシャルで男性性は有標化(marked)された女性性が「ない」ことでしか証明できない。マークがあるのが女、マークが無いのが男。簡単に言うと「女らしくない」ことでしか「男らしさ」を証明できないということ。

『片袖の魚』に出てきた前衛ダンスは、この女性性というマークを振り払うのに必死な二人の人間を表現した、というのが私の考察です。

シール=女性性のマークを剥がすために踊ってシールを振り払う。男はホモソーシャルで有利になるために。マークが「ない」ほど上に行けるから。女は…何のために?名誉男性になるために?

でも身体女性はどれだけマークを振り払おうとも、体がすでにマークなのでゼロにはできない。

シールを剥がさない女性自認男性

「シール貼ってあるから私は女!」ってやってるのが女性自認男性(いわゆるトランス女性)だ。「シールが貼られた男」でしかないけど、“男”とは認められない。なぜなら「“男”であること」を証明できてないから。逆に、シールが貼ってあると「“男”ではない」証明だと思い込んでしまうのかもね。

女性自認男性たちは自分で自分にシールを貼っている。いや、どうしても剥がれなかったから諦めて開き直ったのかもしれないけど。踊って剥がす労力より、シールを貼る労力のほうがコストが低いと判断したのでは。

「男らしさ」を証明するコスト(金や権力だとしましょう)がかけられなくなり、男であることを証明できなくなった。これは男の恥だ。じゃあ「自分でシールを貼っているのだ」と主張すれば恥ずかしくない。「できない」のではなく「あえてやらない」のだと。

被支配は女性のマーク

支配されることも女性性のマークだそう。女性自認男性(いわゆるトランス女性)には性被害者も多いんだぞ!って主張するトランスアライがいるけど、もう「(性的に)支配された」シールは剥がせないと諦めて、他のシールを貼ることに労力をかけたんじゃないかな。「支配された」シールに振り回されてるんじゃないかな。

逆に、支配することは女性性のマークがないことの証明になる。童貞じゃないことや彼女や結婚など、女を支配していることが男社会の条件なのはこのためだ。女性自認男性(いわゆるトランス女性)は弱者男性だって誰か言ってたけど、私も弱者男性一部いると思う。“男”の証明ができなくて自分でシール貼る男たち。

おわりに

『片袖の魚』の前衛ダンスについて考察してきました。ダンサーの体にシールが貼ってあることまでは考察できました。動きについての意味は分かりませんでした。

『片袖の魚』の監督は『ホモソーシャルダンス』という10分くらいの映像も出していて、現代アート的なダンスが中心なんだそう。『片袖の魚』に出てくるダンスと似てる雰囲気なのかもしれない。これは見てないので分かりません。もしかしたら見たらもっと考察が深まるかもしれません。

今回の考察、シールは女性性であると示唆する何かがあるなら成立するが、何もないから一個人の考察でしかありません。たまたま男性性は有標化(marked)された女性性が「ない」ことでしか証明できない、とは知っていたけど、知らなきゃ考察すらできなかったかも。みなさんはどう捉えますか。

参考:『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子

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