『ウィッピングガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』 ジュリア・セラーノ 矢部文訳 サウザンブックス社
以下『ウィッピングガール』と略します。
特に注がなければ引用のページ数は『ウィッピングガール』のページ数です。
この本は「トランスの女性」という言葉を使っていますが、正確に表現すると女性自認男性(いわゆるトランス女性)です。
「トランスフォビア」
〈トランスフォビア〉とは、ジェンダー化されたアイデンティティ、見た目、あるいは行動が社会規範から逸脱している人々に対する不合理な恐怖、嫌悪、または差別のことだ。ホモフォビアをもつ人たちがしばしば、自分の内面に抑え込んでいる同性愛傾向に突き動かされるのと同じように、トランスフォビアは何より、それぞれの文化が掲げるジェンダーの理想に従って生きることへの自信のなさの表れなのである。トランスフォビアが社会に蔓延しているという事実は、生まれた時に割り当てられたセックスに対する期待、制約、思い込み、そして特権の全てに一人一人を同調させようと異常なまでのプレッシャーがかかっている現実の反映なのだ。
p38
なんかよく分からない文章ですね…。「不合理」の中身を知りたいな~?「ジェンダー規範から逸脱しているから」排除されるのがトランフォビアなら、「男だから」ならトランスフォビアじゃないってことでいい?「不合理な」がダメなら、統計データ上性暴力の加害者たる属性を分けるという「合理的な」区別ならトランスフォビアじゃないってことでいい?いいよね?男は女性スペースに入るな!は差別じゃない!
「ホモフォビアをもつ人たちがしばしば、自分の内面に抑え込んでいる同性愛傾向に突き動かされるのと同じように」??「ジェンダーの理想に従って生きることへの自信のなさの表れ」??同性愛傾向があるけどホモフォビアに抑えられている人が、誘惑(この場合同性愛者になること)を遠ざけるために攻撃するのと同じように、ジェンダー規範を逸脱したい(逸脱しそう、しそうで不安)けどジェンダー規範に抑えられているからできない人が、ジェンダー規範を逸脱する誘惑を遠ざけるために攻撃するみたいな?「うらやましいけど自分はやっちゃダメなんだ、誘惑しないでくれ」と。
女性自認男性(いわゆるトランス女性)に向けられる攻撃は「俺だって男らしくしたくないのに男らしくしようとしてるんだから、お前も男らしくしろ」みたいな?それは抑圧がおかしいしいのにね。ホモソーシャルを維持するために様々な抑圧が働いているという構造を理解しないと解体できないのでは?この本はあんまりホモフォビアについては書いてませんでした。
「生まれた時に割り当てられたセックスに対する期待、制約、思い込み、そして特権」に同調したくないなら、男らしくない男として堂々と生きればいい。髪も長いし化粧もするし、女性が着るものとされている服を着るけど自分は男だ!と。そこで女だと自認して他人にも女だと主張していたら、女性に対する期待、制約、思い込みを体現することになり、むしろジェンダー規範を強化することになる。
あと特権にも同調したくないなら特権を自覚するところからですね。“生まれた時に割り当てられたセックス”が「男である場合」には特権があるってまず自覚してほしい。
トランスセクシュアルの定義合ってる!?
トランスセクシュアル(出生時に割り当てられたものとは違うセックスに属する人たち)
p50
〔セラーノの定義では、出生時に割り当てられた性別以外の性別に属する人間としてのアイデンティティをもつか、そのように生活している人〕
p53訳注
トランスセクシュアルという言葉、今では古めかしい言い方らしいです(訳者あとがきより)。著者のサイトの用語集では上記に加えて、一部の人は医療処置を受けた人のみトランスセクシュアルと定義するが手術受けれない人もいるから性同一性による定義を支持します的なことは書いてありました。医療処置受けてなくてもトランスセクシュアルと呼んでいた、ということでいい?
残念ながら出生時に割り当てられたものとは違うセックスに属することはできないし、“出生時に割り当てられた性別以外の性別に属する人間としてのアイデンティティ”を持とうと、異性として生活(って何?)していようと、身体性別は変わりません。この本、この部分以外でも身体のセックスは変えられるかのような前提で書いている部分があります。大丈夫ですか??身体性別は死んでもは変わりませんが??
そうなるとトランスセクシュアルという言葉の存在自体にツッコミたくなります。仮に性器の美容整形手術を受けたとしても、身体性別が変わったように「見える」だけであって実際の身体性別は変わらない。本当は存在しないはずのものがさもあるかのように言葉として存在するのは社会に悪影響な気がします。人間は性別を変えられるかのように洗脳される人が出てしまう。
対してトランスジェンダーは最悪存在できる。ジェンダー(つまり女らしい・男らしいの偏見)を肯定し、その偏見を身にまとうことはできる。でもあくまで「女らしいとされている偏見を身にまとった男」であって女ではない。ジェンダーという偏見を解体したら存在しなくなる。トランスジェンダーの存在を肯定する人は、ジェンダーを肯定する人だと自覚してください。
「インターセックス」…。
トランスジェンダーは包括的な用語として説明されており、その中にインターセックスが含まれるとしています(現在はDSDだと訳注がついている)。ネクスDSDジャパンさんがトランスジェンダーの話でDSDを引き合いに出さないようにと言われてますので、この本の批判点の一つですね。2007年に出版された本ではありますが、2021年出版の『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』にも書いてあって、界隈の中で批判が起きないんでしょうかね。著者のサイトの用語集ではアップデートされてるかと思ったらされずにこの語がまだ使われています。
「トランスミソジニー」!?
以前の記事でもちょっと出てきましたが、ここで徹底的に批判しようと思います。以前の記事ではトランス差別について分類しましたが、トランスミソジニーの中身についても分類が必要な気がしました。
2021年に著者がトランスミソジニーについてまとめたページがネット上にあります。『ウィッピングガール』からの説明で十分な気はしますが詳しく知りたい方はどうぞ。私は読んでもよく分かりませんでした。
トランスミソジニーの構成
〈トランス・ミソジニー〉という用語は、私が作り出したものだと思う。私は『ウィッピングガール』を書き進めるに従い、この概念が包含する範囲を広げ、ジェンダーに基づく差別のほとんどは〈二項対立的セクシズム〉(二元制的ジェンダー規範を守らないことの正当性の否認)や〈伝統的セクシズム〉(女であることや女性性の正当性の否認)が、なんらかの形で結合したものだと説明した。
p13
〈二項対立的セクシズム〉これは、女と男はそれぞれがユニークで重複しないひとそろいの属性、適性、能力、欲求をもつ、厳格かつ相互排除的なカテゴリーだとする考え方である。(p39)この説明は変ではない。超ざっくりですが「男は男らしく」だと解釈しておきます。
〈伝統的セクシズム〉、つまり男であることや男性性が女であることや女性性より勝ったものとする信念(略)。伝統的セクシズムと二項対立的セクシズムは、マスキュリンな人たちがフェミニンな人たちを支配し、男に生まれたものだけが正真の男とみなされることが担保されるよう、互いに同調しながら機能する。(p40)男尊女卑のことだと解釈しておきます。…なんか変な説明だな…。フェミニンな人たち…?男が女を支配するように機能する、ではないのか…?
まず「女であること」って何??元の語は多分femaleness。辞典では女性に特有の特性(英ナビ)、雌性(weblio)、女性であるという事実または性質(Cambridge Dictionary)など書かれています。男性は女性じゃないので、今のところ「女だと勘違いされること」と解釈しておきますね~。(女として見られるようになってうんたらとか書いてましたし。著者は小柄な男性で、女性に見えやすいようです。)「女だと勘違いされること」と「女らしい男であること」で受けた差別では意味が違ってくるから分けて考えてほしい。
「二項対立的セクシズムと伝統的セクシズムが結合したものがトランス・ミソジニー」だそうですがよく分かりません。例を見てみましょう。
トランスミソジニーの例1
トランスの人が嘲笑されたり排除されたりするのが、単にジェンダー規範に沿った生き方をしていないためでなく、女であることやフェミニンな表現のためであるなら、この人は〈トランス・ミソジニー〉という別形態の差別による被害者だ。トランスの人たちを扱うジョークの大半が「ドレスを着た男」や「自分のペニスを切り落としたい男」ネタである場合、これはトランスフォビアではない。これこそトランス・ミソジニーなのだ。
p41
「フェミニンな表現をしているからって嘲笑したり排除するな」は確かにそうなんだけど、フェミニンな表現とされるものがそもそもどういう意味を持つかを考えてほしい。
服を例にしますが、ドレスなど女性用の服は、無防備で弱く見せ、被支配者であることを表現する服として作られていると思っています。それを男がわざわざ着るのは愚か、ひいては滑稽に見えるんじゃないでしょうか。“女性らしい”服は、人間が着たらおかしい服なのであって、例外として地位の低い者、つまり女は着るのが当たり前になっているので違和感や笑いが起きないにすぎません。そもそも服が異常なのであって、男性が着てやっと異常性が見えるようになったんです。
女性性は男性性より価値が低いとか、女性を弱体化させるとか、従属させるのが問題だとも書いていたけど、実際価値が低いと思います。正確に言えば自らの地位を下げるような性質のことが「女性らしさ」と呼ばれているんだと思います。「女性性」は多分、この言葉が使われるかぎり、ネガティブな意味合いを振り分けられ続けると思います。著者は女性性をエンパワメントしないといけないという考えのようですが、途方もない気がします。
でも「私は地位が低いです」と表現している人を、実際に地位の低い者として「扱う」かどうかは別だ。女性たちが「私は地位が低いです」というかのような表現をやめる(脱コルのように)のと「地位の低い者として扱うな」と主張することは両立できる。女性自認男性(いわゆるトランス女性)も女装をやめれるし、女装してるからって攻撃するなと主張することもできる。そして男性は女性と女装男性を攻撃するな。地位が低いと勝手に思い込むな。
そもそも服としておかしいのは変えられないだろうから、もし着るなら「こんな服を着ても男だ」と積極的にアピールしないとジェンダー強化に加担することになりそう。でも理性があれば被差別者(被支配者)の属性の人をわざわざ真似するのは失礼だからやめようってならないかな?
ジョークにされたという「ドレスを着た男」自体は事実でしょう。そこに愚かとか滑稽だとかの意味が見いだされ、笑いとして成立したんでしょうね。「自分のペニスを切り落としたい男」は…健康な身体(男性にとって大事な大事なペニスという意味もあるでしょう)を切りたいというのは愚かである、という考えなんじゃないでしょうか。
二項対立的セクシズム(「男は男らしく」)と伝統的セクシズム(男尊女卑)が結合して「男は男らしくしろ。卑しい女のようなマネをするな」という攻撃を受けているんじゃないでしょうか。トランスミソジニーと言うより「男が」弱くなることへの拒否反応、「男が」自分の地位を下げることへの嫌悪のほうが的確なんじゃないでしょうか。「フェミニンな表現のため」なのではなく、「フェミニンな男だから」ですよ。もっと言えば「男らしくない男」だからだと思います。男らしくない男フォビアと私は勝手に呼んでいます。
トランスミソジニーの例2
- トランスの人に対する暴力や性的暴力のほとんどがトランスの女性(女性自認男性のこと)を標的にしている
- 女性がメンズ服着ても問題ないのに男性がレディース服着ると異性装フェティシズムと診断されるかも
- 女性あるいはレズビアン団体やイベントで、男性自認女性(いわゆるトランス男性)は参加していいのに女性自認男性(いわゆるトランス女性)は参加できない
(p41要約)
女性自認男性が標的にされることについて
トランスミソジニーの例1の「男らしくない男フォビア」を向けられている気がします。いや犯人の動機のデータ取らないとなんとも言えないんですが…。これはあくまで私の意見です。「男らしくない男フォビア」とは言いましたが要はホモソーシャルの圧力です。常に互いに監視し、男らしくない男を排除する。排除の程度は嘲笑から身体的攻撃まで程度があるでしょう。
ホモソーシャルにおいて「男らしくない男」がなぜ攻撃されるかと言えば、自分という一人の男の地位を下げるようなことをする男は、「男も被支配者側になれる」という例を突き付けられるのも不快だし、なにより男性全体の地位を下げる。男の支配は確固たるものではないと気付かれる。男性全体、ひいては自分の地位が下がることを心配しているんです。地位が下がるとか過剰に心配してないで、特権を手放す覚悟を持て。
異性装フェティシズムについて
診断基準 服装倒錯的フェティシズム
A.少なくとも6カ月間にわたり,異性愛の男性が,異性の服装をすることに関する,強烈な性的に興奮する空想,性的衝動,または行動が反復する.
B.その空想,性的衝動,または行動が,臨床的に著しい苦痛,または社会的,職業的,または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている.
▼該当すれば除外せよ
性別に不快感を伴うもの その人が,性的役割または同一性に持続的な不快感をいだいている場合
服装倒錯的フェティシズム Transvestic Fetishism(日本語版DSM-Ⅳ-TR 新訂版 p549)
異性装しただけで診断されてたら確かに問題ですが、異性装しただけではなく性的興奮と反復と障害がないと診断されないみたいなんですが…。いかにもダメみたいに読めてびっくりしました。これ、著者の言っているようなフェミニンな表現への忌避…はあるんでしょうか?あとまあ確かに「異性愛の男性」と言っているんですよね。女性だと何になるんだろう。
著者はこの本の中で「エフェミマニア」と呼び、男性の女性らしさを取り締まり、執着し、研究・病理化するのを問題視してました。確かに“女性らしい”男が忌避されて矯正されてきた歴史はあるでしょう。でも現代の私たちは、それは間違っていたと分かるはずです。“女性らしい”男がいていい。そういう「男」がいていい。女だと主張することも自認もしなくていい。え?女だと主張も自認もするって??“女性らしい男”を忌避しているのは誰なのやら。
女性向けイベントに参加できないことについて
女性向けイベント断られるのは単純に男だからだよ!!「女らしい」からじゃない、「男だから」だよ!!!男性が女性に加害してきた実績だよ!!女性差別が跳ね返ってきてるんだよ!!
女性に生まれたトランスジェンダーは受け入れるのに、トランス女性(女性自認男性)は拒否するのは、MTFよりFTMを優遇する(p215要約)シスセクシスト的(なにそれ)とかトランスミソジニー的とも書いていた。はあ??いや女性に生まれたトランスジェンダーを受け入れていればトランスフォビアじゃないだろ!トランスミソジニーでもないって!男だからだよ!!
トランスジェンダーは疑問を投げかける?
男性は女性より優れているとか男であることは女であることに勝ると想定する男性中心ジェンダー・ヒエラルキーにあって、男に生まれて男性特権を受け継いでおきながら女であることを「選んだ」トランスの女性ほど、脅威と認識される存在はない。自分たちが女であることや女性性を受け入れることで、私たちはある意味、男であることや男性性に想定された優位性に疑問を投げかけるからだ。
p41
「男であることや男性性に想定された優位性に疑問を投げかけ」ているつもりなら男として堂々してればいいのに。この「疑問を投げかける」の中身は「男の支配は絶対的なものではないんじゃないか?」、「お前も被支配者側になる可能性がある」というメッセージだと思う。男という支配側が(装飾して)媚びる側、つまり被支配側になる、なれるという例を目の前に突きつけるのだ。男の支配を揺るがす裏切り者として男が怒るだろう。
それでも積極的に男を怒らせにいってほしい。こんな格好をしても男だ!と主張するのが一番効く気がします。そして男性用スペースも堂々と使ってほしい。トランスジェンダーを男性スペースから排除する男こそトランス差別者では?そういう男にこそ怒れば?女性スペースに入ってくるなと言う女性たちに向ける怒りは男に向けたら?女性に向かってこないで。
男の優位性に疑問を投げかけるそうですが、女性スペースに入る権利を要求するのは男の優位性を証明してると思わないのかな?女性にも権利があるって思わないのかな?あと一つ言うと女であることを「選べて」ないからな??
トランスミソジニー分類
フェミニンな表現をすると嘲笑されたり排除されたりする→男らしくない男フォビア(ホモソーシャルの圧力)(比較的軽度)
女装した男性への暴力や性的暴力→男らしくない男フォビア(ホモソーシャルの圧力)(比較的強度)
異性装フェティシズムと診断されるかも→性的興奮・反復・生活に支障があれば
女性イベントから排除される→女性の権利 女性差別の実績を考慮した防犯
(あと明確に読み取れなくて入れませんでしたが
女性に間違われて女性差別受けるなら→男尊女卑 解消のためには男性特権を捨てることです。)
著者が“トランスミソジニー”と言っているのをざっくりまとめると「男らしくない男としていじめられる」のと「女性イベントから拒否される」じゃない?それは男と闘えって話です。“トランスミソジニー”だと思っているものを解体するには「男は男らしくない男を攻撃するな」「男は女性差別をやめよう」じゃん。そして女性差別がなくならないうちはスペースを男女共用にするのをやめようと言うしかありません。
「女性性を表現しているから」と著者は書いてますが、もう一歩踏み込んで考えてほしい。「なぜ女性性を表現していると男から加害されるのか」「なぜレディース服を着て(性的興奮すると)問題なのか」「なぜ女性専用イベントに断れらるのか」。そこに男社会の圧力が関係していないか。女性差別社会でどういう意味を持つか。男の加害の実績を無視していないか。そして責任はどこにあるのか。自分の中にミソジニーがないか。男に加害させないためにはどうすればいいか。そのあたりを何も考えてないように思えます。
そもそもミソジニーという言葉を簒奪しないでほしい。ミソジニーという言葉を使わずに表現してほしい。男性にしか使わない言葉なんだから〇〇ホモフォビアみたいな名前つけてほしかった。女装ホモフォビアとかシシー(女々しいという意味)ホモフォビアとか。それこそ男らしくない男フォビアでもいいと思うんですがね。
「潜在意識下のセックス」!??
個人的な意見を言うと、「ジェンダー・アイデンティティ」というのはずいぶん紛らわしい用語だと常々思っている。つまるところ、女性でも、民主党員でも、キリスト教徒でも、ネコ好きでも、ヘビメタファンでも、自分が何者か認識するというのは、自分が社会にどう順応していると説明すればしっくりくるのか、意識的かつ意図的に選択することではないだろうか。だからトランスセクシュアルの場合、「ジェンダー・アイデンティティ」という言葉は扱いにくい。なぜならこの言葉は、私たちがアイデンティティとして意識的に選択するジェンダーと、潜在意識下で自分はこれだと感じるジェンダーという、二つの潜在的に矛盾する事柄を指しているように思えるからだ。話を分かりやすくするため、ここからは後者を〈潜在意識下のセックス〉と呼ぶことにする。
p105
意味不明ワード「潜在意識下のセックス」が登場します。ジェンダーアイデンティティのようでちょっと違う。「選んだ」ジェンダーと「感じる」ジェンダーのうち後者、という感じでしょうか。どっちにしろジェンダーという女・男らしさの偏見が判断基準になっているあたり性差別的思想ですね。
私が人格のこの側面を、潜在意識下の「ジェンダー」ではなく「セックス」と呼ぶことに異議を唱える人はきっといるだろう。私が「セックス」と呼びたいのは、私自身の経験が身体のセックスにかなり限られたものだったし、女になりたいという私の潜在意識下の欲求が、一般的に「ジェンダー」という言葉に関係する社会現象とは無関係に存在していたからだ。(略)女性ジェンダー役割を探求したいとか女性性を表現したいとかいう欲求は伴っていなかった。
p109
は??なぜ「女」だと断定できるんですか??一秒たりとも女性になったことがないのに??
「あなたは女の子だよ」と言われる夢を見たり、ペニスを消し去る薬が入った注射器が刺さった男の子の絵を描いたり、男子トイレに入るたび何か間違ったような気持ちになろうとも、そういう「男」です。カーテンをドレスのように巻き付けて遊んでも「男」です。初めてのマスターベーションのやり方が「多くの女の子が本能的に取る方法」(はぁ?)だったとしても、そういうマスターベーションをした「男」です。これらのことは“潜在意識下のセックス”があるという根拠にもならないし“潜在意識下のセックス”が仮にあったとしてそれが女性である根拠でもない。
認知的不協和(相反する思考が同時に存在するときの緊張やストレス)が辛かったそうで、自分が男だという事実に意識的に対処していながら“潜在意識下のセックス”では自分を女性とみなしていたが、自分のジェンダーに疑問を抱かない人たちに対する嫉妬や怒りとなって表れることもあったと書いていた。(p112)他人を責めたところで解決しないことは分かってるだろう。解決策は現実に認知を合わせるか認知に現実を合わせるかだが、身体の性別は変わらないんだからそれはもう認知をどうにかするしかないんじゃないか??その認知はどこからきているのか?なぜ現実を認められないのか?と自分で自分に向き合わないといけない。それを安易にトランスジェンダーだから!とまわりが言っていては、自分に向き合う機会を奪ってしまうと思う。
おわりに
この本、体感ほぼ全てと言っていいほど詭弁だらけです…。誰かツッコミ入れなかったのか??それ根拠になってなくね?定義できなくね?別の理由があるんじゃね?そもそも事実と合ってなくね?みたいなことを誰も言ってくれなかったんでしょうか、言わなかったんでしょうね…。
まあ…用語からおかしいので論理もおかしいんですが…読みたい人はどうぞ。
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